宇多田ヒカル "Fantôme"

<2016年9月28日リリース>

1.道

2.俺の彼女

3.花束を君に

4.二時間だけのバカンス featuring 椎名林檎

5.人魚

6.ともだち featuring 小袋成彬

7.真夏の通り雨

8.荒野の狼

9.忘却 featuring KOHH

10.人生最高の日

11.桜流し


「久しぶりに宇多田ヒカルを見たら、なんだか藤圭子そっくりね」


 6年近くに及ぶ活動休止を明け、久々にテレビに現れた宇多田ヒカルを見て、筆者の母はそんなことを呟いた。確かに、ボブを少し伸ばしたような髪型と、マイクを通して懸命に想いを伝えるその姿は、亡き彼女の母親の美しい姿を彷彿とさせるものがあった。活動再開にあたって、宇多田自身が意識して寄せていった部分も、もしかしたらあったのかもしれない。しかし、“道”にて「始まりはあなただった」と歌い上げるように、母親こそが活動の原点なのであり、休止期間に様々な困難を乗り越えた彼女が自然と辿り着いた姿こそ、今の宇多田ヒカルなのだと捉えるべきだろう。結果、我々のもとに届いた新作『Fantôme』は、これまでにないほど優しく、自然体の宇多田ヒカルを垣間見ることのできる作品となった。と同時に、自然体であるがゆえに、人間・宇多田ヒカルの苦悩や闇、そこから生まれた決意が痛いほど身に染みてくる、非常に生々しい作品であるとも言えるだろう。

 前作のリリースは2008年。宇多田作品の中でも、特に壮大で開放感のあるサウンドが印象的だった『HEART STATION』から早8年が経過し(この期間の出来事は周知の事実なので割愛する)、日本中が待ちに待ったアルバム『Fantôme』がついに手元に届いた。1,2回聴いて満足するような作品でないことは察していたので、何度も繰り返し聴き入り、8年ぶりの宇多田ヒカルを思う存分堪能した。アルバムの印象としては、”道”、”花束を君に”、”人魚”、”真夏の通り雨”といった母との別れをもとに作られたのであろう、味わい深く沁みる楽曲と、”俺の彼女”、”二時間だけのバカンス”、”ともだち”など、ユーモラスな表現やコラボレーションを駆使して新境地を開拓している楽曲が交互に展開していく構成。そして、”荒野の狼”、”忘却”と続き、ともすればダークな雰囲気のまま終わってしまいそうなところ、”人生最高の日”が明るくほぐしてくれて、ラストは圧巻の”桜流し”で締める。大半の楽曲が英語タイトルだった以前から一転、本作は11曲すべてが日本語タイトルとなっていて、まるで90年代半ばの渋谷系から日本語ロックへの転換を見ているようで新鮮だった。

 1曲1曲が儚く、美しく過ぎ去っていく中で、どうしても筆者の心をとらえて離さない曲がある。11曲目の”桜流し”だ。事実だけを述べるなら、本曲は2012年にリリースされており、彼女の母も存命で、子も生まれていないころ。しかし、アルバム『Fantôme』に収められた"桜流し"を聴くと、1番は亡くなった母について、そして2番は生まれてきた子について言及しているようにも感じられて不思議だ。曲の終盤に向けては、やり場のない思いと、それでも生きていくという決意を、力強い歌声に乗せてただただ、歌う、吐き出す。9月に放送されたミュージックステーションSPにて、宇多田はこの”桜流し”のパフォーマンスを披露した。今にもはち切れんばかりの内面を必死に落ち着かせようと歌っている姿、目に光るものを浮かばせながら思いを届けようとするその姿に、筆者は胸を打たれ、画面の中の彼女に釘付けになり、思わず時の経過を忘れた。15歳から天才少女として世間の注目を浴び続けてきた彼女が、楽曲を通して初めて、これでもかというほど内面を吐露した瞬間。少女は母親となり、守られていた者が守る者へと転換した「人間活動期間」を経て、宇多田ヒカルは再び世間の前で歌うことを決意した。力強くリスタートを切った宇多田ヒカルの「人間らしい」アーティスト活動を、筆者は影ながら応援していきたいし、苦難を乗り越えて「日本の音楽界に宇多田ヒカルあり」と胸を張って言えることを、心の底から嬉しく思う。

 追記になってしまうが、本作は米iTunesチャートで6位を獲得。アメリカ人が宇多田ヒカルの「人間活動期間」の出来事について、どれほど知っているかは正直定かではない。しかし、相次ぐテロや黒人殺傷事件、そして大統領選を前にして不穏な空気が流れる中で、多くのアメリカ人にとって彼女の歌声は「平穏や優しさの象徴」として受け入れられたのではないだろうか。もしそうなら、WilcoやBon Iverなど、同月に新作をリリースしたアメリカのミュージシャンたちとの共振を生み出したことになるし、世界的にこうした動きが加速していっても不思議ではない。宇多田ヒカルの音楽は、もはや国内の価値判断だけに委ねきれない、インターナショナルミュージックとして、世界を取り巻く存在でもあるのだ。

Written by 信太卓実

※本文内に一部事実誤認が含まれていたため、確認し訂正いたしました。申し訳ございませんでした。

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